自戒を込めて 北大路翼
俳人はおどろくほど連句を知らない。
連句の発句が俳句になつたことは知識として知つてゐても、本当は発句がなんであるかもよくわかつてゐないのではないか。何かにつけ芭蕉の論を持ち出す人たちも連句の話になると、急に黙つてしまふのである。
かくいふ僕もその中の一人。どうも連句は難しいイメージがあつた。
まづは一人ではできないといふこと。いきなり連句を作りたくなつても、一人ではどうしやうもない。いつでもどこでも作れるのが俳句の良さなので、これは大きな問題だ。発句だけ作り続けていつか誰かが脇を付けてくれるのを待つわけにはいくまい。また闇雲に人数だけ集めても、今度は捌ができる人も必要だ。いきなり初心者同士で始めるにはハードルが高い。
第二には決まり事の多さである。発句、脇句、挙句、月の座、恋の座、打越、エトセトラ……。用語を覚えるだけでも大変だ。挙句なんかは挙句の果てとして慣用語に使はれてゐるので、昔の人はいまよりも連句に親しんでゐたのだらう。俳句はとりあへず季語と五七五の定型の二種類だけ覚えておけばいい。連句は一句一句どころか、それぞれの句の並びにもルールがある。
とは言へここまで書いて来て、ルールの複雑さこそ連句の魅力なのではないかとも思ふ。ルールは破るものではなく新しく増やすのが本当の不良だとどこかに書いたこともあつた。複雑なルールの網をすり抜けてゆくスリル。ときには引つかかり、破らなければならないときもあるが、そんなことも連句は承知してくれてゐるのだらう。例外が増えるほどルールは複雑で魅力的になつてくる。
三つ目は短句の難しさ。これは実践(幸運にもなんどか連句の会に誘つてもらつたことがある)での話だが、短句がまつたくできないのだ。七音のあとにまた七音が続くことを俳句の体が拒否してしまふ。七音の次はどうしても五音なんだよなあ。頭では七七にしてゐるつもりでも数へると十二音になつてゐる。特に長句と順番にしてゐるともうパニックだ。短歌の七七には違和感がないのに不思議なものである。
短句ができないのは僕のセンスがないだけの話。ルールを覚えるくらゐなら一人でもできるはずだ。まづはルールを覚えるところから始めてみよう。コロナ禍が収束するころにはみんなで集まれるといいな。
北大路翼(きたおおじ・つばさ)
歌舞伎町俳句一家屍派家元。砂の城城主。
句集『天使の涎』『時の瘡蓋』『見えない傷』、著作に『廃人』など。