連句と締切 榊隆太
連句と締切は似ている。どちらも外からの力によって発想を凝集させ、そこから生まれてくる光を求めるような装置としての役割が備え付けられている。締切というのは非常に苦しく、わたしはいまだにそれに慣れないところがある。所属しているサークルの歌会でも、新人賞の応募でも、大学のレポートでも、いつも締切ギリギリになってから焦り出してなんとかアイデアを絞り出す、ということの繰り返しである。今回のこの原稿も同様で、構想はいくらかあったものの、それを文章化し出したのは締切が目前に迫ってきてからとなってしまった。なぜ締切は苦しいのか。一つには、それが頭の中をどうしようもなく埋め尽くしてしまうからだろう。「締切」ということについて考えていると、わたしの中ではその言葉ばかりがぐるぐると巡って、他のことを考える余裕を失ってしまう。それで課題に没頭できればよいのだがそういうわけにもいかず、思考領域の一部を常に圧迫されているような感覚に陥ってしまう。
しかし締切がなければ作品は完成せず、ずっと未完成のアイデアの断片のままにとどまってしまう、あるいは無際限に増殖し、まとまりのない形へと暴走してしまうことになりかねない。つまり締切とは作品に統一を与える重要な契機なのだ。そしてそれは時間的に確定してしまっている死の地点まで作品を導き、そこで正しくトドメを刺してやることでもある。
締切と連句が似ているというのはまさにこの二つの特徴においてである。連句は打越を嫌うが、わたしのような初心者にとってある要素を使ってはならないと意識することは、また別の要素を導入しようとすることよりも難しいものだった。登場したモチーフに頭の中を支配され、ことばの手札がどんどんと少なくなってゆく。しかし、だからこそ閃く言葉の結びつきがある。連句とはそのような言葉同士のつながりに託された形式なのではないだろうか。
連句には複数の死が隠れている。採用されなかった句は殺され、季節には時間制限があり、初めから花が咲く場所は決められている。苦しい中でもがく姿が美しいなどと断定するつもりはない。だがこの死を乗り越えた先でしか気づけない光があることは確かで、わたしはずっとそれを探しているのかもしれない。
◯榊隆太
2004年愛知県生まれ。上智大学詩歌会に所属し、普段は短歌を中心に制作。