連句人の友人がいる俳人です 松本てふこ

 「連句新聞」から執筆依頼が来た。発行人のひとりである高松霞は友人で、普段は俳句を詠んでいる私と連句との縁を繋げ続けてくれている人だ。

 連句のルールは巻くたびに聞いているはずなのに、なかなか身につかない。身につくほどの頻度で連句を巻いているわけではないからだ。「とりあえず打越に気をつける。前だけ見て走るんだ!」とだけ自分に言い聞かせて参加している。何もわかっていないに等しい。そんな状態で巻いて何が楽しいの?と聞かれそうだが、高松に連句に誘われると私は嬉しくなる。連句自体の経験も、彼女以外の捌きで連句を巻いた経験もそう多くはないが、高松の捌きはとりわけ見ていて楽しい我儘さがある。出来上がった連句もその我儘さがもたらしたものが魅力になって愛着が湧く。趣味というか、連句で作りたい世界観もはっきりしていて(それは彼女が私の友人だからという部分が大きいとは思うが)、連句のルールとは別の観点で「ここにこういう言葉やムードがあってほしいのかな?」という推測ができる。あとこれは単に自分の性癖だが、地味な句が必要そうなところになると非常に張り切る。

 要するに私の連句との付き合い方は、主に高松との関係が土台になっていた。原稿依頼も来たことだし、彼女に頼らずにひとりの書き手としての連句への興味を書こう、と思っても、その興味の土台がそもそも結局高松が発行した「ゆるり連句のつくりかた」であったり「連句新聞」なのである。「連句新聞」を何号か読んで、宮城県連句協会の作品に時折混じる純粋さと狂気がいいなと思っていたら、「連句ゆるり」のYouTubeで高松が彼らの作品を「素直」と評していた。個人的には素直という言葉には収まりきらない奔放さを感じた。

 そんな私の連句理解を「連句新聞」らと共に助けてくれているのが、小池正博による週刊「川柳時評」である。連句を時評的観点で論じた記事がそれなりの頻度で読めるのがありがたい。歴史への目配せを欠かさず、かつ連句に日常的に触れるということはどういうことなのかをさりげない筆致で伝えてくれる。

 衝撃的だったのは「連句を読むということ」という記事(2021/08/14)。「連句に純粋読者というものはありえないと思う」「基本的に連句は作るもので読むものではない」そうなのか…!!!???私にとって連句を巻く楽しさと読む楽しさは別腹と言い切れるレベルで違うし、読むだけでも楽しいのではと感じていた。

 また、連句は何人でどの構成で巻いたものかで読み心地も巻き心地(と言っていいのか)も全く違うものになるのだなとも思う。例えば両吟など、4~5人での連句しか巻いたことのない私にはかなり遠く、憧れに近い存在だ。ネット上で公開されていた高松霞(またもや…)と大塚凱の両吟「裏をかへせば」の駆け引きに満ちた展開を非常に楽しく読んだし、「川柳スパイラル」11号掲載の小池と小津夜景の両吟「たぶららさ」のスリリングな道行にも息を呑んだ。両吟はパートナーのいるダンス、またはデュエット曲のような濃厚さがあって、自分がプレーヤーになることを想定して読みたいとは思わない。4~5人で巻く連句では自分の句が捌きに採用されないと自分がモブのように感じられる時間があり、それはそれでちょっとマゾヒスティックな面白さがあるが、両吟でそんな時間は流れないだろう。

 連句について考えていたら、小津夜景の作風に連句がどんな影響を及ぼしているか、または俳句同人誌「オルガン」において連句が果たしている役割など、俳人が連句にどう接しているかを深掘りしたくなってきた。別の機会に、そういうことも書いたり考えたりできたらいいなと思う。

◯松本てふこ
俳人。昭和56年生まれ。「童子」同人。平成23年『俳コレ』(邑書林)に参加。平成30年、第五回芝不器男俳句新人賞中村和弘奨励賞受賞。句集『汗の果実』(邑書林)。