ウォーター 山中広海
連句にのめり込んだのはいつだったか、実ははっきり覚えている。小池正博さんに教えてもらって何年かは誘われれば参加するという感じだったのに、いつから熱心になったのか。
それは自分が出した句に、ある人が付けてくれた恋句がきっかけだった。その句にはアイコスという単語が使われていて、その語彙は知っていたものの、こんなに格好良く使えるんだ、ということにまず驚いた。そして、バブル期を書いた小説から発想した自分の句がすんなりアイコスのある最近の時代に移行したことも、更に意外な驚きがあった。それは大袈裟に言うと、ヘレンケラーが水を触って、「ウォーター」という単語と実際の水が結びついた時のように、その時はじめて、自分の句と他者の句がつながって、全く違う世界に転じたことを体感したのだった。そのうえ、その付句は、頭のてっぺんから足の先まで探しても、自分からは全く出てこない類のものだった。
自分の句をきちんと受け取ってもらい、それに新しいものが付け加えられて句が返ってくるという行為は思っていたよりも、ずっと深い喜びを私にもたらした。思えば、そこからだ。本格的に連句の沼にはまったのは。
今改めて、連句という文芸を客観的にみてみると、創作に興味がある人には特に、こんなに魅力的な、時代にあったものは他にないように思う。長句(575の句)、短句(77の句)を交代で作り、信頼できる捌き(この捌きへの全幅の信頼も連句の大きな魅力のひとつだ)によって、音楽を奏でるように、言葉をつないで、一つの世界を作っていく。そして、それは創作であると同時に、複数人とのコミュニケーションでもある。そのなかで、自分の句と他者の句が確かにつながったと思える時、そこには他の文芸では感じられない、幸福な瞬間がある。
そんな瞬間を味わうために、最近は出来るだけ連句会に参加している。だが、やればやるほど、自分の連句への理解があっているのか不安になる。連句のルールである式目は大体理解しているが、連句の鑑賞の本が少ないために、巻きながら、ここ面白い!逆にここはあんまり、と思っている自分の感覚が本当に正しいかどうかがわからない。雑誌「みしみし」や連句大会の入選作品集、高松霞さんのYouTubeなど、連句の鑑賞が書かれたものがあるにはあるが、数が少ないし、評の分量が少ない。昔書かれた本も、今と感覚が多少は違うはずなので、全部鵜呑みにしていいかもわからない。なので、判断材料が少ないのだ。
出来れば、書店で購入できる「今の」素晴らしい連句が載っていて、素晴らしい鑑賞文が付いている、鑑賞本がほしい。読者を増やすためにも、物語のようには読めない連句をそのまま差し出すのは、ちょっと不親切すぎる。小林恭二の『短歌パラダイス』『俳句という愉しみ』のような連句の本があったらどんなにいいだろう。そして、「今の」というのは、芭蕉がいいのはわかるけど、一体いつまで芭蕉なんだ、いつまで「満天星の巻」なんだ、と思っているからだ。2024年話題の連句のここがすごいとか、2024年の連句ベスト3,など、連句界全体を見通したものがあってもいいし、もっと互いに褒めあったり貶しあったりしてもいいのではないだろうか。
そんなこんなで、連句の面白さに夢中になっている割には、今のところ上手くなる道筋はさっぱり見えない。けれど、去年の夏から、友人知人を無理やり誘い、門野優さんに捌きをしてもらって、月に1回ほど連句を巻いている。やってみると、当たり前だが、どんな人と巻いてもやっぱり連句は楽しい。参加している人から、出句に「ほー」という声がもれると、お、ウォーターの瞬間か?と思ったりもする。いつもいつもやってくるわけではないけれど、はじめて水に触れるような、そんな鮮やかな瞬間が時々、ふいにあらわれるから、本当はそれだけでいいのかもしれない。
◯ 山中広海(やまなか・ひろみ)
俳句結社「澤」同人。連句協会会員。普段は書店員として働いています。
X : @hiromiyyam

十二調「クラムボン」の巻
捌 門野優
靴のうら花びらひとつ連れてきた
門野優
春日傘閉じ路地の書店へ
相田えぬ
バゲットの匂うリュックのゆれるたび
八上桐子
身ごもったのは水色たまご
綿山憩
月光のやさしく照らす移民船
山中広海
満点星紅葉の陰でキスして
憩
崖っぷちアイドル仕事一つ消え
広海
ノンブル数えて行方知れずに
憩
はつなつの犬は大きく伸びをして
えぬ
ウユニ塩湖のおすすめは雨期
広海
風邪声でちいさく唄うクラムボン
桐子
はなればなれにならなくていい
優
二〇二五年四月十六日 首尾
於 完全個室居酒屋 蔵-KURA- 三宮
