連句と時間 中村安伸

連句は作品を通したコミュニケーションである。
連句の基本動作は句を付ける行為、すなわち前句への返答として付句を書くことである。俳句の句会が句に対して評を返すコミュニケーションであるのに対し、連句は句に対して句を返すもので、より非日常的であると言える。
句を付けるにあたって難しく感じるのが、前句の一つ前の句、すなわち打越句との関係である。付句は打越句と関係が「あってはならない」とされていて、これは数ある連句のルールのうちでも特に重要なものである。
しかし、二句の関係を完全にゼロにすることは不可能である。私の解釈では、打越句と前句の関係と、前句と付句の関係が類似のものであってはならないということであり、このルールは「時間」に関係していると思う。
連句には、現実時間とは別の作中時間が二つある。それらを仮に「場の時間」と「個の時間」と名付けてみる。連衆によって共有され、連句一巻を通して流れる場の時間は、時計が示す現実の時間と同様に先に進むのみで元へ戻ることがない。
前句と付け句の関係が、打越句と前句のそれに似てしまうことは、時間を巻き戻すことにつながり、本来ひとすじであるべき時間の流れに結び目を作ってしまい、停滞が生じる。
俳人は俳句とくらべて連句が季の前後に対して厳密であることに驚くが、これも時間の逆行を防ぐためのルールのひとつである。
一方、個の時間は他者と共有されるものではないから、個人の主観によって巻き戻したり、スキップしたり、停止させたりすることができるが、あくまでも個の権限が及ぶ範囲、即ち一句の中のみに限定される。
連句における時間の不可逆性に対する厳密さは、連句一巻が一つの世界であることを示している。
他者と共有された外部のことを世界と呼ぶのであれば、発句にはじまり挙句まで続く連句一巻は連衆によって共有されつつ創られる一つの世界であり、連衆の間で同期をとるための装置として場の時間がある。
連句一巻という世界はひとつの庭のように独立しつつも閉ざされず、借景のように現実世界と連なっている。
庭には森羅万象を眼前に凝縮しようという動機があり、連句一巻もまた現実世界の縮図にならんとする。そして、連句という庭を貫く池水には中世の闇の色が沈潜している。
挙句は連句一巻の世界から現実世界へ戻るための出口となる。したがって挙句がいつも同じような興趣をもたらすのも必然なのである。

中村安伸(なかむら・やすのぶ)
1971年生。俳人。2016年、句集『虎の夜食』を刊行。