東京と大阪のふたりによる往復書簡

vol.4 2021.11.07 門野優

寒くなってきましたね。
高松さんが言ってた「連句には私性はあるのか?」ということについて、このごろ考えていました。

わたしは連句の付句を考えている時たまに「あ、この前句には塚本邦雄っぽい句を付けてみたいな」とか思うことがあります。恋句を付けないといけなくなった時には「ユーミンになったつもりで、思い切って付けよう」と思うこともあるし、「ここはちょっと新海誠みたいな気分だな」とか、「ジブリっぽい感じでいこう」と思って付ける時もあります。連句にも「本歌取り」があって、サンプリング元が誰にでもわかるかたちでオマージュを作ることはあるけれど、私が言っているのはそれとは別で「ただその一句の付句の時にだけ宮崎駿になった気分で付ける」んです。出来上がった句を見ても誰もそうとは思わないかもしれないけれど、その時の私の付句の私性は私の中の宮崎駿なんです。

こんな時あの人だったら、どんな風に感じるかな?どんな景色が見えてるのかな?って想像しながら、次の句の時にはまた違う自分になっている。私の中の私性は一巻の中で変化し続けているのかもしれない、と思いました。
俳句や短歌なら、きっとこんなこと許されないですよね。

高松さんの付句を「高松さんらしい句だな」って思うように、他の人の付句も「この人の句だな」ってわかりやすい人もいるし、わかりにくい人もいます。でも何度も一緒に連句をしたことがある人なら、みんな結構わかりやすいかな。
他の人が連句をしてる時の頭の中ってどんな感じなんでしょう?
いろんな連句人の連句観みたいなものも、これからもっと知っていきたいです。

春号からはじまった連句新聞、今回の冬号で四季は巡り、次は2022年の春号です。
そしてこの一年間の連句新聞は、来年春に冊子になる予定で準備を進めています。
紙で読む連句新聞もお楽しみに!