東京と大阪のふたりによる往復書簡

vol.5 2022.04.07 高松霞

自然の「よさ」がよくわからない。
花見、海水浴、紅葉狩り、雪景色。まったく興味がない。心が動かない。綺麗だな、とか、美しいな、と「みんなは言うんだろう」と思ってそう声に出す。私には自然そのものの「よさ」がわからない。けれど人間の解釈を通して、自然を認知することならできると思う。SNSをスクロールするたびに現れるコメント付きの桜吹雪や、ニュースのひとコーナーで紹介される大きな雪だるま、そういうものの「よさ」ならわかるのだ。我々連句人は十七季に収められた「知識として蓄積された自然」を詩に利用する。季語は我々の共通認識として存在するのであって、自然を楽しむためのものではないのではないか。

実際に連句を読んでみたい。状況の異なる「月」を並べてみよう。

  光を混ぜて春の杣山          
  安伸
 海夭々花雲浩々月耿々           
 春眠子
  恐惶謹言清明の候           
  土竜
(草門会「海夭々」の巻/連句新聞2021年秋号)

 いづくともなく六段の曲          
 菜帆
  濡れ濡れと月光流す硝子ビル      
  清
 ワインセラーにひそむこほろぎ       
 紀
(解纜「コクトオの耳」の巻/連句新聞2021年夏号)

「月耿々」は、まず前句に山が置かれていることに注目したい。視界を遠くに持って行ったところにさらに海、雲、花が現れる。これ以上ないほどひろびろとした春の空間に、月が耿々とやってくる。そして謹んで申し上げる、春の終わりの挨拶。
「月光流す」は、「月耿々」とは逆にひそやかな雰囲気である。六段の曲は「月光」であった。それは硝子ビルに濡れ濡れと、しっとりと流れていて、ワインセラー(これ、なんか地下にあって、赤ワインな感じしますね、よくわかんないけど)のこおろぎが反応する。

同じ「月」でも、こんなにも異なる。自然の「よさ」は人間の知性によって咀嚼され、詩として生まれ変わる。小さく折り畳まれた情報を、ひとつずつ開いて確かめる。季語とは、なんて密度の濃い生き物なのだろう。私には「自然」そのものより、ずっと尊いものに思える。

連句新聞は「現代連句のアーカイブ化」を目指しているわけです。連句に存在する「よさ」を、ひとりでも多くの方に届けたい。そして、10年後20年後の連句人に、我々が蓄積した「よさ」を読んでもらいたい。そのために私たちがやれることはたくさんあって。ひとつひとつ大切に、その瞬間のひらめきにはしゃぎながら、二人三脚でやっていきたいと思っています。

二年目の「連句新聞」を、どうぞご贔屓に。